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​SAMPLE

プレミアムコースの会員様がご成婚退会されるときに永尾カルビが​会員様を主人公にして書き下ろす世界にひとつだけのすてきなショートストーリーの文章のトーンをイメージしていただくための見本です。1996年発行「恋はこうしてやってくる」(PHP文庫)に収録したものにほんの少し手を加えています。

​冷たい水

​地方のデパートから小さな荷物が送られてきたのは、日曜日の昼下がりだった。表に張られた伝票を見て、思わず笑った。
ーーーなるほど。
ラッピングを開くと、綺麗な花柄の薄紙にくるまれた、さらに個包装されたものがいくつか見える。手触りからお菓子の類いだろう、と思った。
メッセージカード。


贈っていただいた写真集、
とても楽しく拝見しました。
心ばかりのお礼です。                   
​                    祐樹廈(ゆきか)


海に面した小さな街。役所が主催するイベントで、コンパニオンをしていたのが祐樹廈だった。
すらりと伸びた脚がとても印象的で、ボーイッシュなショートカットが小さな顔をより小さく見せていた。
関係自治体にくばるとかの式典の記録写真を依頼された私は、カメラをかかえて会場をうろつきまわっていた。
一段落したところに、
「お疲れさまでした。ビールの方がよかったかな」
にっこり笑いながら、コースター代わりの紙ナプキンを添えて、祐樹廈が冷たい水を差し出してくれた。
その自然な優しさが、何か彼女が積み上げてきたものを感じさせた。いい気分だった。
ーーーどうせ金のためだから。
不本意な仕事を引き受けてしまい、多少苛立っていた私の心が、あるいは余分なフィルターをかけたのかもしれない。
「ありがとう」
「たいへんだね、働くって」
祐樹廈は笑った。会ったばかりの若い女に、軽口をたたかれる。奇妙な浮遊感が私を高揚させる。
「地元の人?」
「そう。生まれた時から、ずっと」
「飽きない?」
祐樹廈は、しばらく考えこむようにして、
「好きだから」
ぽつりと言った。
半年が経った。何度か、祐樹廈と連絡をとることも考えた。何もしない方が、いいような気がした。
私はもう若くない。新しいことに向かうことを、ためらうことが多くなっていた。

三年越しに、日本の風景を撮りだめた新しい写真集が完成した。友人、関係者へ献本するためのリストを作っていた。
祐樹廈の名刺が出てきた。所属する小さな事務所の住所が記されている。
私はあの笑顔を思い出して、リストの一番最後に祐樹廈の名を加えた。
念願の作品が完成したという達成感が、祐樹廈との思い出にまた余分なフィルターをかけていた。

約束の時間を少し過ぎていた。海沿いの小さなバーには寡黙な夜が流れていた。
ドアが開くたびに、新しい客と寄せる波の音が、店の中に入ってきた。
ーーーその後、どうしてる?
「ふつう。本当にふつう。私は生まれた時から、この街でふつうに暮らしてたの。ふつうが好きなのね、きっと」
ーーー都会へ出たいと思ったことはない?
「楽しそうじゃないもん」
ーーーあの時、どうして俺に水を手渡してくれたのかな、と思って?
「怖い顔してカメラかかえて、うろうろしてたから。何だか気になっちゃって」
ーーーやりたくない仕事だったんだ。
「わたしにも、わかったって」
三日前の祐樹廈との電話のやりとりをリフレインしながら、視線を左手の時計とドアの方を何度か往復させた頃、波の音に包まれて、青いワンピースがするりと滑りこんできた。
「こんばんは」
祐樹廈はにこっと笑って、私の隣に座る。
「今、こんな本読んでる」
祐樹廈は、バッグから文庫本を取り出した。
唐突だた。意外に照れ屋なのかもしれない。
「ドリアン・グレイの肖像?俺も昔、読んだことがある。どんな物語かはすっかり忘れたけど」
「おもしろいよ」
上手に電話番号を教える手口から、利発な子ということはわかっている。
「独身ですか?」
私は少しうろたえる。
「結婚してないのって聞いてるの」
「うん」
「昔は?」
「してた」
「どうして別れた?」
「どうしてだと思う?」
「仕事にわがままだから、愛想つかされた」
私の笑い声を少し遅れて祐樹廈の笑い声が追いかけてきた。
半年ぶりに見る祐樹廈は、髪が肩まで伸びたせいか、半年分より少し大人びていた。
「君は?」
「まだ21だし」
「ダブルスコアか」
「42か。おじさんだね」
「おじさんだよ」
「わたし、おじさん嫌いじゃないよ」
かすかに真顔になった祐樹廈に、私は愛しいものを感じていく。私に対してではなく、その言葉は、胸の奥にいまも潜む誰かを指しているのだな、と容易に想像がついた。
あの時、私に冷たい水を差し出してくれた祐樹廈の優しさは、その誰かに対する優しさなのかもしれない。
「昔から、本読むのが好きだった?」
祐樹廈は、ほんの少し考えてから、
「3年ぐらい前かな」
薄暗い照明に似合うような小声で言った。
バーを出ると、祐樹廈はごく自然に、私の手を取って歩きはじめた。
海と反対方向に向かう道は、緩やかな坂になり、山へと続く。
波の音に背中を押されるように、祐樹廈と私は、ゆっくりと歩いていく。
「本当に都会に出ようと思ったことはない?」
山から降りてきた8月の風が、わずかなふたりのすき間を器用に通り抜けいく。
「わたしはこの街にいるのが、一番いいんだよ」
静寂があった。
「あそこに見えるのが、藍津岬」
ふり返って海を指さしながら、祐樹廈が明るい声を出した。
深い闇の中に巨大なものが横たわっていた。
「もう少し歩けば、ケーブルカーの乗り場があるの。それに乗って展望台に行こうか」
私の手を握る祐樹廈の手に、力が入った。
「その後あなたの泊まってるホテルのバーで、仕事の話を聞かせて。明日はね、明日は車を借りて、海沿いをドライブしよう。30分ほど先の街の、レストランのテラスでランチを食べたいな。それから浜辺を少し歩いて、車の窓を開けてお昼寝をするの。夕方になったら堤防に並んで座って、私の髪をなぜてほしいな。どんな歌が好き?わたし、目を閉じて聞いているから、好きな歌を歌って」
祐樹廈は、はしゃいでいた。祐樹廈は、ひとりで三年前をなぞっていた。私を握る手に、また一段と力が入った。
ふいに潮の匂いを感じた。
ーーだいじょうぶだよ。僕は君を置いていなくなったりしないから、だいじょうぶだよ。
私は祐樹廈の手を静かに握り返す。 


 
抽象的な背景

このショートストーリーはもちろんフィクションですが祐樹廈(ゆきか)という名前だけは実在しています。大阪のとあるところで会った人です。名刺をもらった瞬間にこの素敵なお名前にノックアウトされました。理想をいえば真ん中の樹という漢字がもう少し画数の少ない見た目さっぱりした漢字であればもっといいのになと思いました。廈という中華テイストの字がこのお名前のいちばんのチャームポイントなので前ふた文字はあまり自己主張しない字の方がいいからです。名刺をいただいた1分後にはいつかこの名前を使ってお話を書いてみようと思っていました。重ねていっておきますがお名前を拝借しただけでストーリーの中身や設定にご本人は一切反映されていません。しいてモデルらしき人を挙げるとしたら2012年に私が滞在していたインドネシアのロンボク島の安アコモデーションササックのスタッフだったササック族のウリちゃんでしょうか。とても性格のよい素朴な島娘で頭の回転も速く話していてとても楽しい子でした。おそらく彼女はお隣のバリ島にさえ行くこともなくロンボク島の中だけで一生を終えることでしょう。しかし仮定の話として日本に連れて来てもなんなく適応できるだろうなあと私に思わせる女の子でした。たくましさと利発さと前向きな明るさがありました。島にひきこもってるといっても衛星放送で世界中のチャンネルを見ていますし併設パブのカウンターの中にいるときは世界中から来たゲストとおしゃべりしているわけですから視野の狭さとは無縁な人でした。ウリちゃんを見ながら祐樹廈って子はたぶんこんな子だろうなと思ったことを覚えています。時間軸のつじつまは合いませんけどねw 

ウリちゃん、元気かな。

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